地震対策の原型をつくった濃尾地震 10月28日は地震特異日 防災ニュース
2023年10月31日
<10月31日投稿>濃尾地震は、日本が近代へ向かおうとしていた1891(明治24)年の10月28日の早朝に発生しました。規模を示すマグニチュードは8.0と、日本の内陸で発生した過去最大級の地震でした。震源となった断層から濃尾平野にかけて震度7を記録し、震度6の地域は福井県・岐阜県・滋賀県・三重県、大阪府の地盤の緩いところにまで広がりました。揺れは広範囲にわたり、東北から九州まで感じられたといいます。この地震により、岐阜県・愛知県を中心に、死者7,273人、全壊した家屋14万2,177戸(愛知県被害史志より)と、甚大な被害が発生しました。
濃尾地震は、明治に入った近代都市が初めて遭遇した巨大地震でしたが、それ以外にも、近代行政システムによる初動対応、マスメディアによる報道、地震の科学的調査機関の設置、耐震建築の研究など、現在の地震対策の原型となった地震として知られています。
初動対応では、岐阜県・愛知県ともに地震発生直後から活動を開始し、東京へ現状を当日のうちに報告。これを受けて臨時閣議の開催、内閣総理大臣の視察などの初動活動が比較的短期間のうちに行われています。救助活動は、警察・憲兵だけでなく名古屋駐屯第3師団が機敏に対応し、軍隊が災害出動を行う契機にもなったほか、備蓄金での炊き出しや国庫補助による土木復興など、近代行政システムによる災害対応の先駆となりました。また、マスメディアが普及し始めてから最初の地震でもありました。被害の翌日には報道が始まり、東京からも特派員を派遣して詳細に報道、写真での記録も進むなど、短時間でかなり正解に情報を共有する状況が現れました。
濃尾地震が近代黎明期の日本に与えたインパクトは大きく、初動対応や報道のあり方だけでなく、負傷者の緊急治療、救済費用、堤防・道路復旧作業と費用の調達、地域復興など、さまざまな震災対策の課題が明らかになりました。また、地震に対する科学的究明と予防の重大さから、地震から1カ月後には地震の原因究明と震災予防のための調査を打ち出しました。翌年には震災予防調査会が設置され、地震と内陸活断層の因果関係の究明や耐震建築に関する研究成果などを続々と発表し、地震防災に関する科学的研究が大きく前進しました。
濃尾地震から130余年を経た現在でも震災予防に関する結論が出るものではありませんが、自然現象を解明して防災・減災のあり方を考える原型となった濃尾地震の教訓から、私たちのもっている科学的研究や技術を最大限に活かした防災対策を進めていくことの重要性を学んでいきたいものです。
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濃尾地震が発生した「10月28日」という日付に着目すると、この日には歴史的に大きな地震が何度も発生しており、「地震の特異日」としても知られています。暦の用い方が異なるものもあり、10月28日そのものが問題だというわけではありませんが、過去に起きた大きな地震へと思いをめぐらし、現代における最大の備えとして何ができるのかを考えてみる機会にしてみてください。
【相模・武蔵地震】(878年)
平安時代の歴史書「日本三代実録」に記録された大地震のひとつで、相模トラフ沿いで発生したM8級のプレート境界地震の可能性が指摘されています。日本三代実録には約30年間で300以上の地震が記録されており、大きな災害では、864年富士山の貞観大噴火(駿河国・甲斐国)、869年貞観地震(陸奥国)と大風雨(肥後国)、887年仁和地震(南海トラフ巨大地震)が知られています。
【慶長三陸地震】(1611年)
現在の青森県、岩手県、宮城県を襲った地震ですが、被害は北海道にも及びました。千島海溝沿いで発生したM9クラスの地震の可能性が指摘されています。このころには、1605年慶長地震(南海トラフまたは伊豆・小笠原海溝の地震)も発生しています。
【宝永地震】(1707年)
南海トラフのほぼ全域のプレートで発生した地震とされ、東海・東南海地震、南海地震がほぼ同時に発生した連動型地震で、マグニチュードの推定値は8.4から9.3と最大級の大きさであったとされます。この4年前の1703年には相模トラフ巨大地震とされる元禄地震が発生し、その影響で宝永へと改元していたのですが、それからまもなくの三連動地震になってしまいました。江戸時代にはこの150年ほど後の1854年に安政東海地震・安政南海地震が連続して発生していますが、これは宝永地震の後始末的な地震であった可能性も指摘されています。
防災ログ事務局:南部優子