東日本大震災から6年経った福島を訪ねる(後編) コラム

2017年4月28日

4月28日 

怒りを忘れてはいけない、これが被災者の現状だ

実は今回の福島視察には楢葉遠隔技術開発センターの見学に加え、もう一つの目的があった。帰還困難区域に自宅を持ち、いまだに帰宅することができない遠藤義之氏の話を聞くことだ。これまで何度も福島を訪れ、被災地の状況をつぶさに取材してきている”防災の鬼”渡辺実氏。その中で地元の方々と多く知り合ってきた。遠藤氏はそのひとり。震災のあと3年余りの付き合いだ。遠藤氏の語る福島の現実とは。


楢葉遠隔技術開発センターの見学を終え、“ぶら防”一行は2017年4月1日に一部を除いて避難指示が解けた福島県双葉郡富岡町に向かった。移動の車の中で渡辺氏は次のように語った。

「たとえ避難指示が解除されても、その場所が突然安全になるわけじゃない。国や当局は『解除するから住んでください』っていいたいのだろうけど、そういうわけにいかない現実もある。今日はそうした現実を改めて見つめたいと思っているんだ」

2017年、桜の季節目前。震災以降数度目の福島取材だ。今回の同行者は福島県のいわき市で宅配弁当の会社である観陽亭を経営する遠藤義之氏だ。

遠藤氏の生まれは福島県双葉郡富岡町。高校までをすごした。就職は東京の広告代理店を選んだが、25歳のときに故郷に戻った。

「故郷に恩返しをしたいという気持ちもあって、富岡町の第三セクター施設の開設スタッフとして参画しました」(遠藤氏)

そして震災発生の2年前に、地元富岡町に当時あった「ホテル観陽亭」に支配人として就職した。

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左図:避難指示解除区域の概念図。ふくしま復興ステーションのHPより
右図:現在の観陽亭事務所で向かい合う鬼と遠藤氏

 

「さぁこれから」という時に被災

「当時の観陽亭は宿泊のキャパシティが60人ほど。レストランや婚礼会場も併設していて、地元ではけっこう大きな施設でした」(遠藤氏)

太平洋に流れ込む富岡川を見下ろす場所に建っていた観陽亭は、2011年3月11日の東日本大震災で被災した。現在建物は解体・撤去され、僅かな瓦礫を残すのみとなっている。

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旧観陽亭の瓦礫の向こうに見えるのは福島第2原発

「震災の前年には海の見えるホールなどを新設し、お客さんも右肩上がりに増えていた。まさに『さぁこれからだ』というタイミングでの被災でした」(遠藤氏)

「場所柄、東京電力の職員もよくきたんじゃないですか」(渡辺氏)

「もう、毎日のようにマイクロバスで送り迎えするくらいご利用頂いていましたね。今となってはいい思い出です」(遠藤氏)

しかし、渡辺氏がいつも言っているように、人は突然被災者になる。遠藤氏は震災直後、3月16日には妻の実家がある東京都多摩市に避難することができた。

原発事故の対策拠点として使われたJビレッジも以前は設立当時の目的どおり、各サッカークラブが使用していた。そうした関係者も観陽亭に宿泊することが多かった。

「震災直後は仕事で知り合ったサッカー関連の方々からも応援のメッセージや救援物資をたくさんいただきました」(遠藤氏)

全国から集まった救援物資を、地元で不自由な避難生活を送る被災者たちのもとへ届けるのが遠藤氏の日常業務となった。

「仮設住宅もまだ整備しきれいていない時期ですから、救援物資を届ける僕自身も、学校の体育館などの避難場所にお世話になりました。そうした場所には自衛隊の皆さんなどが炊き出しなどに来てくれるのですが、配布の列に並んでいるときに思ったんです。『なんだか自分は家畜になった気分だな』と」(遠藤氏)

「そう思っている避難者は多かったんじゃないでしょうかね」(渡辺氏)

「だと思います。私は家畜のままでいるのが嫌だったので、自分で次の目標を決めました」(遠藤氏)

2011年の3月末にはオーナーと協議し、観陽亭でのビジネスはいったん解散することが決定した。

 

人が住んでいないと家は死ぬ

「当然ですよね。ただ地元でも認知され始めていた屋号ですから、これをゼロにしてしまうのはどうしても忍びなかったんです。震災前はそれこそ人生をかけてこのホテルを成功させようとしていましたからね」(遠藤氏)

救援物資として送られてくる食品は多くが保存食の類だ。楽しんで食べるものではない。被災地に物資を配布する活動を続ける遠藤氏のもとには「観陽亭の支配人なんだから、なんか美味しいものを持ってきてよ」といった声が集まるようになっていた。

そうしたなか、観陽亭の屋号を残してお弁当屋をやろうというアイデアが生まれたのは自然な流れだった。

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現在の観陽亭のHP

“ぶら防”一行は、かつての観陽亭があった場所に行ってみた。すでに建物はなく、当時太平洋を背景にして結婚式などで使われた石造りのチャペルが残っているだけだ。

「ここも現在は避難指示が解除になっているのですが、住める状態ではない。例えばこの隣にあるお宅は震災から6年間空き家ですが、中は悲惨な状態です。人が住み続けていないと家そのものも死んでしまうのです」(遠藤氏)

 

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福島県双葉郡富岡町小浜、旧開陽亭の隣に建つ一軒家。震災後無人で、室内には草が生えている

 

「避難指示が解除され、住んでもいいということになっても、この家に住めますか?という話だよね」(渡辺氏)

こうした原発事故被災地の現実を、国はどこまで把握しているのか甚だ疑問だ。復興のトップに立つ今村雅弘復興大臣は4月4日の閣議後記者会見で、「自主避難者が帰れないのは自己責任と思うか?」との質問に「基本的にはそうだ。国はできるだけのことはやった」と答えた。

「この3月末と4月1日に強制的に避難をさせた避難指示区域が解除になった。しかし解除の根拠はよくわからない。東京オリンピックの誘致活動で安倍晋三総理は“アンダーコントロール”という言葉をつかった。福島の事故は完全にコントロールできているという意味だよね。ところが本当は全然できていない。国民もそのことに気付いているのに目を背けている状態なんですよ。この今村復興大臣の発言は、あり得ない! 6年経っても毎日苦しんでいる被災者の心をどれだけ傷つけたか。どうやら今村大臣は辞任の意を固めたみたいだけど、怒りを覚える」(渡辺氏)

 

「イノベーションで飯は食えない」

「福島県浜通り地区のイノベーション・コースト構想ですが、これって何でしょうね。地元では歓迎する声もかなりあります。なぜなら『雇用を創出し、活性化を約束します』といった告知がされていますから。地元では『イノベ』がくるから安心だ。というようないい方をする人もいるくらいです。でも実際はどうなのか、私自身はイノベで飯は食えないと思っていますけどね(笑)」(遠藤氏)

「私には娘が2人います。上が中学生で下が小学生。6年という時間が経過して、下の娘は被災後の人生のほうが長くなってしまった。妻と娘たちは東京に住んでいて、私は福島の観陽亭に単身赴任です。故郷の復興のためにという思いでやっているのですが、そういう話をしても娘たちは『それはお父さんの故郷だよね』なんて感想を漏らします。ちょっと悲しいですよ」(遠藤氏)

「原発事故さえなければ娘さんたちだって富岡町を『私たちの故郷だ』と胸を張れたはずです。そうできなくなっていることは非常に悲しく残念であり、かつ重要なことだと思う」(渡辺氏)

汚く染まると書いて「汚染」。しかし、福島は決して汚い場所ではない。「県民はもっともっと怒るべきだ、怒りを忘れてはいけない」と“防災の鬼”渡辺実氏は言う。

遠藤さんと別れた“防災の鬼”渡辺実氏は、苦言を呈した。

「福島浜通りのイノベーション・コースト構想ですが、設立の主意を見ると『2020年を当面の目標として、各プロジェクトの具体化を進め、浜通りが新たな産業革命の地となり、福島県全体の復興、ひいては日本の地域再生のモデルとなることを目指す』と書いている。つまり東京オリンピックまでにすべてをご破算にしたいということでしょう。でも実態は全然先が見えない状況であることに変わりはない。これはあと3年後の2020年を過ぎてもたぶんこのままでしょうね。我々はこれからも、原発事故の被災地・被災者を決して忘れてはいけない!」(渡辺氏)

富岡町でこの4月に避難解除の対象となった住民は9500人余り。帰還に向けた生活再建のための「準備宿泊」を登録している人はおよそ350人。復興庁などの意向調査で、「町に戻りたい」と回答した住民は僅か16%。

これが6年が経過した福島第一原発事故被災地の現実なのだ。この厳しい現実のなかで必死に生きて行かざるを得ないのは、福島第一原発事故があったからであり、今村復興大臣が言った「自己責任」ではない!


福島取材を終え、東京にて本原稿をまとめている最中。渡辺氏に遠藤氏から連絡が入った。

「時間が掛かったのですが、渡辺さんを同行しての帰還困難地域への立ち入りが許可されました。さらに現実を見に、我が家にいらっしゃいませんか?」

4月1日、富岡町で避難解除されたのは、居住制限区域と避難指示区域。実は帰還困難区域は、まだ立入申請をしないと入ることができない。その帰還困難区域に外部の人間を同行しての立ち入りが許可されたというのだ。こんなお膳立てをされて、“防災の鬼”がひるむわけにはいかない。時間をおくことなく、再度福島県富岡町行きを決意する渡辺氏。次回はその様子をレポートする。


防災・危機管理ジャーナリスト/株式会社まちづくり計画研究所 代表取締役所長/技術士/防災士
渡辺 実

1974年工学院大学工学部建築学科卒業。公益社団法人日本都市計画学会、一般財団法人都市防災研究所等を経て、1989年に株式会社まちづくり計画研究所設立、代表取締役就任。
国内外の自然災害被災地、大規模事故現場へ足を運び、被災者、被害者の立場にたって問題や課題をジャーナリスティックに指摘。現場体験をベースに、災害報道の検証や防災対策についても国民サイドにたった辛口の提言を続けている。
2007年より、NPO法人日本災害情報サポートネットワーク理事長としても活動。

◇主な著書
『巨大震災その時どうする?生き残りマニュアル』(日本経済新聞出版社) 2013
『都市住民のための防災読本』(新潮社) 2011
『大地震に備える 自分と大切な人を守る方法』(中経出版) 2011


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